2018/11/24

 今日は学校で泣いた

 講師に言われた言葉が悔しくて、涙がぼろぼろこぼれて止まらなかった。

 友達も講師たちも、その場にいた人はみんな気まずい思いをしたと思う。

 今になって恥ずかしい

 でもまだ悔しさは治まらない

 家に帰ってから2時間風呂に入ってさらに泣いた

 一度悲しいモードのスイッチが入ってしまうと、芋づる式に新たに別の悲しいことを思い出して、ますます涙が止まらなくなる

 人前で泣くなんて、すごく子供っぽくて恥ずかしいことだと思うのに、私はそれをやめられない。

 

 中学生の頃なんかは、よく授業中に暇つぶしに眺めていた国語便覧を読んで涙を堪え、授業終了のチャイムと共に教室を飛び出してトイレの個室に駆け込んでは、おいおい泣いた。

 高村光太郎の詩集。学校の授業で初めてレモン哀歌を読んだ時、私はただひたすらに綺麗で悲しい儚い物語を思って、泣いた。愛し合っていた夫婦が、不運にも引き裂かれてしまう。別れ際に智恵子が齧ったレモンは、トパーズ色の香気を出して、妻は一瞬病から解放されて正気に戻り、それは二人の生涯の愛を一身に傾けた。

 

 なんて綺麗な光景だろう。

 

 しかしその後、図書館に行って智恵子抄を借りて読んでみると、そこに綴られた膨大な愛の言葉に、彼らの夫婦生活がただ幸せな愛に溢れただけのものではなかったことがわかってきた。今度は私は、智恵子の心境を想像して泣いた。

 初めて見た智恵子の写真。低く庶民的な鼻、背が小さく頰には肉がたっぷり余っていて綺麗に痩せているわけでもない。まさにどこにでもいそうな平凡な女性だった。

 私はそれを見て、なるほどと思った。

 文学の才能も美術の才能も、何もかも完璧に兼ね備えた神様から愛されたとしか思えないような男性に毎日毎日、貴方は世界で一番美しい、と、貴方は段々綺麗になる、と、貴方は完璧だ、と、一つの欠点も見当たらないと、そう言い続けられたら…

 私は想像しただけで、身の毛がよだった。

 一切合切全てを肯定されて、ただ美しい美しいと…

 

 そんなのは、私ではない。

 貴方が見ているのは私ではない。

 

智恵子が病んだのは、あまりにも当然のことだと、私には思えた。